「長嶋茂雄」と聞くと、野球の知らない方でもその名前は知っているという方は多いのでは?
6月3日午前6時39分に、肺炎のため都内の病院で死去したということです。89歳でした。
そんな長嶋茂雄さんについて、少し記事にしようと思います。
なお、思い込みや間違っている部分があるかもしれませんので、ただの一個人的なファンの感想として見ていただければと思います。
野球選手としての長嶋茂雄について
長嶋茂雄さんは1936年(昭和11年)2月20日に生まれました。千葉県・佐倉市出身で佐倉一高から立教大学に進み、東京六大学野球では1957年の秋に、当時の六大学記録を破る通算8本塁打の新記録を作りました。
東京六大学野球は、慶應義塾大学、明治大学、法政大学、東京大学、立教大学、早稲田大学の六つの大学でリーグ戦が行われています。
ちなみに現在の本塁打の記録は巨人軍の選手・監督でもあった「高橋由伸(慶応大学)」さんの23本です。
そして1958年に巨人軍に入団。王貞治さんと共に活躍し、「ミスター・ジャイアンツ」とも呼ばれるほど国民的な人気でした。
1974年に「わが巨人軍は永久に不滅です」の名言を残し、17年間の現役生活を終えました。巨人軍の背番号「3」は永久欠番となりました。
その後巨人軍の監督も務め2001年に勇退し、終身名誉監督となりました。
記憶の長嶋、記録の王
長嶋茂雄さんの現役だった頃、僕は小学校に上がるかどうか位でしたので、テレビで観戦していた記憶はほとんどないです。どちらかというと王貞治さんの方が、テレビでプレーの姿はよく見ていました。
それでもすごいプレイヤーだった、と記憶にあるんですよね。それだけひきつける何かがあったんだと思います。
今思い出せるのは、昔見たテレビの特集かなんかで見たことのある方が大部分だけども、以下のよう事柄です。
- 天覧試合でのサヨナラホームラン
- 敬遠が続いた時バットを持たずに打席に立ったことがある
- 帽子をわざと浅くかぶりプレイ中(守備や打席)に帽子が勢いで飛んでしまうようにしたことがある(ファンを喜ばすための見せるプレー)
- 打席に立った時の相手キャッチャーによるつぶやきにも動じなかった(その時のキャッチャーは確か野村克也さん)
- 本当は通算本塁打445号だけど一塁ベースを踏み忘れたため記録としては444号
- 息子である一茂さんを幼いころ、自転車に乗せて球場まで行った帰り忘れて置き去りにしてしまったことがある
- 監督時代のキャンプ中になかなかジャンパーを脱がず、脱いだ時に背番号3が見えた時の歓声がすごかった(狙ってたでしょ。笑)
巨人ファンに向けてというより、プロ野球ファンに向けての「喜ばせたい」という思いだったのでしょうね。
数々のタイトルも取っているのですが、よく言われるように記録より記憶に残る選手でした。
とても野球が好きで生涯野球少年という印象です。こういうとメジャーで活躍中の大谷翔平選手にも通ずるような気もします。なのでセコムのCMには胸が熱くなりました。
そういえばこの二人どことなく似ているかも知れませんね。大谷選手の場合は「記憶」も「記録」も残している感じですが。…ここでも二刀流か(笑)。あ、「長嶋+王=大谷」?勝手に一人で盛り上がりました。
ご冥福をお祈りいたします
今朝のテレビで速報が流れ、すぐさまその報道が流れ、たげ(とても)びっくりしました。
脳梗塞で倒れて以来懸命にリハビリをし、その後も球場を回り選手を励まし激励し、やはり野球が好きな方なんだなと思います。
僕は小学生の頃は野球をしていたものですから、長嶋茂雄さんは憧れの選手の一人でした。昭和のスーパースターがまた去ってしまいました。
人はいずれ亡くなるのだとわかってはいますが、やはり嫌なのものですね。
今後は後に続く後輩たちが、日本のプロ野球を盛り上げていってくれると思います。
心よりご冥福をお祈りいたします。
コメント